地震のあった時、私は仕事中でした。
揺れは初めから大きかったけど、
つい2日前にも同じくらいの揺れがあったので、
またきたな~くらいで座ってました。
が、どーん!!と、大きい衝撃がきて、
本当に座っていられなくなり、机の中に入ったけど、
机も引き出しが飛び出すくらい激しく揺れ、
電気は消え、とにかく早く終わってくれと祈りながら机の中に隠れていました。
揺れが落ち着いて、机の下から出ると、
物は散乱し、パソコンも倒れたり重いプリンターもずれていたり、
少し茫然としてしまいました。
ただ、茫然としている間にもまた大きな余震がきて、
とにかく会社から出ようということで駐車場へみんなで避難。
その間にも余震が何回かきました。
ワンセグを少し観たら、仙台港に6mの津波がくるという情報。
6m!?と驚きながらも全く現実のことと思えず、
正直この時は津波への恐怖はあまり感じていませんでした。
会社の周りの道路も信号が消え、次第に渋滞し始めてきました。
渋滞がひどくなって帰れなくなる前に帰った方がいいと思い、
地震がきて約30分後に私は家へ向かって会社を出ました。
何より家にいるももと母親のことが心配でした。
いつも通る産業道路よりも1本陸の方に入った国道を通って帰ったけど、
信号が付いていなくても譲り合い譲り合いで
思いのほかスムーズに走ることができました。
みんなあわててる様子もなく落ち着いてて、
日本人はえらいな~と、感心する余裕もこの時はまだありました。
ただ、徐々に道路も込み始め、ある交差点で止まっていた時、
ふと道沿いの建物の裏を見ると車がひしめいているのが見えました。
込んでいるのかと思ったけど、津波によって押し寄せてきた車だと気づき、
まっすぐ進もうとしたら、前の方も浸水してきているのが見え、
あわてて陸地の方へ曲がって逃げました。
後日、知人が私が避けた産業道路道を通って津波に巻き込まれていたと知り、
自分も危なかったな~と恐くなりました。
ちなみに知人は奇跡的に無事でした。
しばらく進んでようやく知っている道に抜けたので、
そこから家を目指して帰りました。
家に向かっている途中もずっと、
津波が来るから高台へ避難しろ、
今からどこかへ向かうのは危険だから近くの高台で避難しろ、
というようなアナウンスがずっと流れていて、
私も今ここで止まった方がいいのかとも迷ったけど、
万一ももになにかあったら後悔しきれない!
と思い、海近くの家へ向かいました。
これは一般的には間違った行動です。
無事だったからいいものの、あん時は本当にももと母親のことしか考えられなくて。。。
下駄箱の下敷きになっていたらどうしよう、
ガスもれで火事がおきていたらどうしよう。
ももは毛がふさふさで脂もたっぷりのってるから
火がまわるのも早いだろうと、
心配で心配で心臓バクバクさせながら車とばしてました
途中吹雪も強くなり、サイレンの音も大きくてどんどん怖くなったのだけど、
なんとか家に到着。
玄関の所にももと母親がちょうど出ていて、
車もその辺に止め、「もも!!」とかけより、
しっぽをぶんぶんふるももと熱いハグ!!
感動の再会をしていたのに、
母親に車が邪魔だからさっさと中へ入れろと怒られ、
早々にハグ終了。
停電していたので着替えてしっかり防寒対策をし、
母親とお互いどんな状況だったか軽く話し、
ももの散歩へ。
散歩へ出てみるとうちの付近は高台のせいか、
近くから避難してきたと思われる車がいっぱい止まっていました。
雪はやんだものの、暗くなり、どんどん寒くなり、
物置から引っ張り出してきた石油ストーブをつけ、
その上で冷凍食品や御飯を温めてその日の夕飯にしました。
もし結婚したら、石油ストーブ絶対買おうと強く思いました。
まだ相手すら見つかってないけど。
ラジオで情報収集している間に仙台駅付近で働く妹が帰宅。
地震後すぐ会社を出て、営業さんに送ってきてもらったとのこと。
3人と1匹で茶の間で布団かぶりながらラジオに聞き入っていると、
仙台市若林区の荒浜で200~300人の遺体を発見とのニュースが。
この時ようやくこの地震の大きさを思い知りました。
この頃携帯は圏外で、友人や親せきとも連絡とれず、
とりあえずみんな精神的疲労のせいか眠くなり、
20時ごろ雑魚寝で消灯。
この時点でうちはまだ水道が出ており、
危機感のない母と私は何もせず、
後で深~く後悔することになるのでした。。。
と、これが地震当日のハピコ家です。
この時はまださらに大きな被害を知ることも、
なが~い被災生活を送ることになるとも思わなかったのです。